フランクリン・D・ルーズベルト(USS Franklin D. Roosevelt, CVB/CVA/CV-42)は、アメリカ海軍の航空母艦。ミッドウェイ級航空母艦の2番艦。艦は1945年4月29日にコーラル・シーとしてニューヨーク海軍造船所でジョン・H・タワーズ夫人(太平洋艦隊最高司令官の妻)によって進水するが、1945年5月8日に前大統領フランクリン・D・ルーズベルトに敬意を表して、フランクリン・D・ルーズベルトと改名された。
艦は乗組員から、Swanky Franky, Rosey の愛称で呼ばれたが、後の方がより一般的であった。フランクリン・D・ルーズベルトは1945年10月27日、アポロ・ソウセック大佐の指揮下就役した。
フランクリン・D・ルーズベルトは調整航海中にブラジルのエウリコ・ガスパル・ドゥトラ(Eurico Gaspar Dutra)大統領就任式にアメリカ代表団を送り届けるため1946年2月1日から2月11日までリオデジャネイロを訪問した。
カリブ海での演習及び訓練航海の後、8月8日から10月4日まで地中海に配備され、ギリシャ内戦におけるギリシャ政府を支援するアメリカ海軍の一部として活動した。フランクリン・D・ルーズベルトは地中海の多くの港に帰港し、何千名もの訪問者を受け入れ、多くのヨーロッパの人々にアメリカの海軍力を誇示した。
本国において艦を公開した最初の機会は10月後半の海軍記念日、ニューヨークにおいてであった。
活動初期
フランクリン・D・ルーズベルトは1947年7月まで東海岸で活動を行い、その後大規模なオーバーホールのためノーフォーク海軍造船所のドックに入った。改修作業が行われた後、1948年9月13日に第6艦隊に配属されノーフォークを出港した。
1950年、フランクリン・D・ルーズベルトは核兵器を運用する最初のアメリカ海軍艦艇となった。続く4年の間、ルーズベルトはヴァージニア岬から東海岸に沿って、またカリブ海で集中的な作戦活動に参加した。さらにルーズベルトは4度の地中海への巡航を行なった。
ルーズベルトは1952年10月1日に CVA-42 と再分類された。1954年1月7日に、広範囲な改造を行うためピュージェット・サウンド海軍造船所へ向けて出航する。船体が巨大でパナマ運河を通行できなかったため、ルーズベルトはホーン岬を回って3月5日に造船所に到着し、1954年4月23日に退役する。
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ルーズベルトは SCB-110 改修計画を実施された最初のミッドウェイ級航空母艦であった。開放艦首はエンクローズ化した「ハリケーン・バウ」となり、3基のC-11蒸気カタパルトの装備、着艦装置の強化、管状マスト、新型レーダーおよびアングルド・デッキが装着された。後部エレベータは右舷デッキの端に再配置された。前方エレベータは拡大された。また、全てのエレベータが75,000ポンドの運搬能力に強化された。航空燃料は350,000ガロンから450,000ガロン(1,320,000リットルから1,700,000リットル)に増加された。基準排水量は51,000トンまで増加したが、満載排水量は63,400トンとなった。重量増加のため、いくつかの5インチ対空砲は10基を残して撤去された。また、装甲ベルトが撤去された。船体バラストも増加した重量に対処するために装着された。ルーズベルトは1956年4月6日に再就役した。
再就役後の調整航海後、フランクリン・D・ルーズベルトは新母港のフロリダ州メイポート(Mayport, Florida)へ向けて出航した。1957年2月にルーズベルトはメイン湾で、寒冷気候下におけるカタパルト、航空機運用およびレギュラス誘導ミサイルのテストを行なった。7月にルーズベルトは第6艦隊における最初の続く三つの任務に向けて出航した。地中海でルーズベルトは艦隊の演習スケジュールに加えてNATOの演習も行い、また訪問者の受け入れも行った。
キューバ革命が頂点に達し、フランクリン・D・ルーズベルトは56名のアメリカ市民と3名の外国籍者をキューバから救援する高速輸送艦クレインスミス(USS Kleinsmith, APD-134)を支援した。
1960年後半にルーズベルトは着艦誘導装置を装備される。ルーズベルトは1961年3月に100,000回目の着艦を記録した。
1966年8月から1967年1月まで、フランクリン・D・ルーズベルトは単独の西太平洋巡航を行なう。この間にルーズベルトは東南アジアにおいて敵との戦闘を行う。搭載する航空団、CVW-1 は、主としてF-4ファントムIIおよびA-4 スカイホークから編成された。1966年11月4日に燃料コンパートメントで突然の火災が発生、7名の乗員が死亡した。
近代化改修
フランクリン・D・ルーズベルト (1966年)フランクリン・D・ルーズベルトは姉妹艦のミッドウェイが1966年から1970年にかけて受けた近代化改修(SCB 101.68)を行う予定であった、しかしながらミッドウェイの改修が大きく予算超過したため(結局2億200万ドルが費やされた)、ルーズベルトへの同様の改修は中止された。代わりにルーズベルトは A-6 イントルーダーおよび A-7 コルセアIIを運用できるようにするため4,600万ドルをかけて改修が行われた。
1968年7月、フランクリン・D・ルーズベルトは11か月近代化計画のためにノーフォーク海軍造船所に入った。前方の中央エレベータは艦橋前の飛行甲板端に再配置された。斜め飛行甲板のカタパルトは撤去され、乗組員のスペースは改装された。また、いくつかの旧式となった対空砲も撤去された。さらに、海水と互換性を持つ軽水を使用する甲板端噴射消火システムが装着された。ルーズベルトは1969年5月26日再び就役し、1970年1月に第六艦隊に配備、地中海へ戻る。
1973年の第四次中東戦争では、空母インディペンデンス(USS Independence, CV-62)、強襲揚陸艦ガダルカナル(USS Guadalcanal, LPH-7)と共に撤退作業中の偶発事故に備えた。
1973年から1975年まで、VAW-121は最後の E-1B 飛行部隊としてルーズベルトで運用された。ルーズベルトは1975年6月30日に多目的空母として CV-42 に再分類されたが、対潜哨戒機を運用することはなかった。1976年10月4日にルーズベルトはアメリカ空母として初めてAV-8A ハリアーの運用部隊、VMA-231 を乗艦させた。
1977年1月12日、ルーズベルトはメッシーナ海峡を通過する間にリベリア船籍の貨物船オーケアノスと衝突した。双方とも自力で港へ戻った。
退役
1970年代末までにフランクリン・D・ルーズベルトの状態は悪化していた。ミッドウェイやコーラル・シーが受けた改良は行われず、ルーズベルトは同級の中で最も近代化が遅れ能力が不足していた。さらに、ルーズベルトは他の二隻と異なりゼネラル・エレクトリック社製のタービンを使用していた。他の二隻が装備していたウエスティングハウス社のタービンと比べると問題が頻発し、速力も不足していた。したがって海軍は、ニミッツ級航空母艦の二番艦ドワイト・D・アイゼンハワーが1977年に就役した時、ルーズベルトの退役を決定した。ルーズベルトは1977年4月に最終巡航を終え、1977年9月30日に退役、翌日除籍された。
ルーズベルトはその悪化した状態と、5.33mという低い格納庫が運用できる航空機を制限したことで、予備役艦隊で保管されることに不利に作用した。海軍はまた、ルーズベルトが再就役することでカーター政権がニミッツ級航空母艦の建造承認を取り消すことを恐れた。